舞岡公園の「舞の里だより」207号(7月中旬発行)の
「生きもの語り 第30回」を書きました。 田の草とりに思うことを書いています。
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第30回 「田の草とりに想う の巻」
〜草虫暦〜(二十四節気・七十二候)
大暑 桐の実が成り始め、土は湿って蒸し暑くなる頃
田んぼは草とりの季節。
腰をかがめて、稲のまわりの泥を手でかき回す。田の草とりは大変だという声もきかれますが、
私は田の草とりがいちばん好きな作業だったりします。
田んぼ(稲作)の醍醐味は、田植え、稲刈りではないのだと、ひとり思ったりもしながら。
それは、この時期、田廻りといって、
足音を田んぼに聴かせるように畦のまわりを歩くこともそうですが、
田の草とりは、温い田んぼのなかを歩き、一株一株、
そして稲の合間をよく見るしごとだからです。
そうしていると、田んぼに水が張られて3日とないうちに活動を始めた、
泥の表面をユラユラと揺れているイトミミズたちや、忙しく動き回るミジンコや…
小さな小さな生きものたちが、
田んぼの泥の柔らかな表層を作っているのだということを実感します。
まだ小さな苗たちも、田植え後すくっと立ち上がり、
水面にはお日様の光が反射して、白い雲が映り込む。
にわか雨がふれば、水面に波紋が幾重にも広がって。
この風景のなかに、田んぼのなかに自分が在ることが、
田んぼのなかの稲をはじめ数多の生きものたちと繋がっているようで、心がほっとするのです。
田の草とりを、ただ稲にとって憎っくき草をやっつける、という作業の思いだと、
訪れない感覚だろうと思います。
田んぼは、単なる作業ではなく、人としての在り方なのだと思ったり。
田の草に貝が卵を産みつけ、藻のなかに小さなヤゴが暮らしていたりと、
田んぼのなかには、自然の摂理として、なにも無駄なものはないのだと思いながらも、
稲の成長のためにと田の草をとり、泥のなかに押し込めて、また肥やしとする。
稲のにぎわいと田んぼの生きもののにぎわいはそもそもイコールであると思いながら、
そのために人はどう手を入れたらよいのかを思い描いています。
のんびりと泥のなかに手を入れながら、
自分から遠ざかるオタマジャクシやアメンボに少し悪い気もしながら、
ふと後ろを振り返ると、私の歩いた足跡のなかにオタマジャクシが集まっていました。
少し水の流れが緩やかになる私の足跡のなかは、
オタマジャクシたちにとって心地良い場所のようでなによりです。